ブラック企業でついた「攻撃フラグを探す癖」。完璧主義を手放して一歩引いて生きる理由。

世の中には「何かに全力で取り組めることは素晴らしい」という、ポジティブな意識を賞賛する空気が満ちています。

2社目のブラック企業で経験したハラスメントを経て、私の思考回路はガラリと姿を変えました。

今の私は、何かに猛烈にのめり込むことはありません。
一歩引いたところから、コンテンツを浅く、ある意味では「無責任」に楽しんでいます。

なぜそうなったのか。そして、過去の傷を抱えた私たちが穏やかに30代を過ごすための、今の私の考え方を書き残します。

完璧主義という名の、生き残るための「防衛服」

よく、燃え尽き症候群に対して「完璧主義をやめよう」「適度に力を抜こう」というアドバイスがなされます。けれど、当時の私にとってその言葉は一切通用しませんでした。

なぜなら、完璧主義になりたくてなっていたわけではなく、「完璧にやらないと、理不尽なハラスメントが発生する環境」だったからです。

ちょっとでも説明が足りていなかったり、先回りした補足が不足していたりするだけで、すぐにモラハラに繋がる。どこから、いつ上司の機嫌が悪くなって攻撃を受けるか分からない。
そんな異常な空間の中で、私は「攻撃されないように」と、常に精神を限界まで張り詰めさせて、気を張るしかありませんでした。あの時の完璧主義は、自分を守るための唯一の「防衛服」だったのです。

地獄のような環境から解放された今でも、脳はその時の生存本能を忘れてはくれません。
何も起きない安全な場所にいるはずなのに、今でも脳が勝手に「存在しない攻撃のフラグ」を探してしまい、怖くなって必要以上に過剰なタスクをこなしたり、過剰な説明を重ねたりしてしまう。

一度深く傷ついた脳は、そう簡単にはリセットされないのが、私たちが直面しているリアルな現実です。

ライブハウスの一番後ろで、無責任にコンテンツを眺める

「何も悪いことが起きていないと、このあと何か悪いことが起きるんじゃないか」
「好きが高まると、いつか裏切られて過剰に傷つくんじゃないか」

そんな風に、見えない未来に怯えて感情の起伏が発生すること自体が、今の私にとっては耐え難いほどの疲弊に繋がってしまいます。もう、大きな感情の動きに耐えられるほどの気力や余裕は残っていないのです。

だからこそ辿り着いたのが、今の「一歩引いた、透明な観客」というスタンスでした。

例えるなら、「ライブハウスの一番後ろの壁に背中を預けて、気ままにステージを眺めている」ような感覚です。

最前列で狂ったように熱狂する楽しさは、もう得られないかもしれません。けれど、一番後ろにいるからこそ、無責任に好きでいられるし、しんどくなったら無責任にその場を離れることができる。
もし好きな対象に何かトラブルがあっても、過剰に引きずられることなく、「残念だな」「好きだったな」程度でスッと切り替えることができるのです。

「浅さ」という名の、優しい距離感

「無責任に、浅いところで楽しむ」というと、どこか冷めていて、寂しいことのように聞こえるかもしれません。

けれど、これは熱狂を諦めたネガティブな諦観ではなく、自分の精神の平穏を最優先で守るための、極めて合理的で優しい選択だと思っています。

視野を広げすぎて世界のノイズにのまれそうになるくらいなら、自分が傷つかない適正な距離感をきっちり引くこと。誰にも自分を安売りせず、過剰な熱狂からは静かに離れること。

狂えない自分を責める必要なんてどこにもありません。
これだけ傷ついて、それでもなお地に足をつけて毎日を必死に生きている私たちは、それだけで十分に正解を出し続けているのですから。

静かに、でも確かに、自分の人生を歩く

かつて生き残るために張り詰めさせた完璧主義は、今でも不意に私のブレーキを踏ませようとしてきます。

けれど、今の私には、現実をしっかりと繋ぎ止めてくれる家族という大切なよりどころがあります。そして、いいねの数も他人の視線も存在しない、この「静かなブログ」という場所があります。

最前列で拳を突き上げなくても、一番後ろの席で、お気に入りの冷たい飲み物を飲みながら、静かに自分の人生の手触りを良くしていく。

そんな30代の歩き方があってもいいよね、と。かつての私のように傷つきながら毎日をやり過ごしている同世代の方へ、この静かな記録が届くことを願っています。

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