朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』を読んで。「狂えなくなった」私が、それでも何かに縋りたい理由。

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読み終えた瞬間、しばらく本を閉じられなかった。

「なんで朝井リョウはここまで知っているんだ」と、何度思ったかわからない。

実は私、本を読んでも感想をうまく言葉にできないことが多くて。誰かと感想が違ったらどうしようとか、変なこと言ったらどうしようとか、そういうことを考えているうちに自分の本当の感想がわからなくなってしまうことがよくあるんです。

でもこの本は違った。読み終えた後、感想を書き殴る手が止まらなかった。あ、これが「感想」ってやつか、と思ったくらい。それだけ衝撃だったし、記憶に残った一冊です。

あらすじ(ネタバレなし)

アイドルグループの運営に関わることになった男、心の疲れを癒したい大学生、仲間と楽しく推し活をしていたはずが気づけば深みにはまっていく女。三つの視点から、人の心を動かす「物語」の功罪を描いた作品です。

推し活文化、陰謀論、マルチ商法。現代のインターネットで日常的に目にする光景が、登場人物の人生として地続きに描かれています。


読んで突きつけられたこと

私はかつて、熱量の高いオタクでした。イラストを描いて、二次創作を読んで、好きなコンテンツの話なら何時間でもできた。

それが今はもうできない。

ブラック企業でメンタルをやられてから、何かを好きになる前に「検問」を通すようになってしまいました。コンテンツのマイナス面を先に探して、一歩引いた場所から適正価格でしか楽しめない。ハマりたくても、ハマれない。狂いたくても、狂えない。

この本を読んで、その感覚がくっきりと言語化されました。


「正気でいることの虚無感」

俯瞰で見ているポジションって、失敗しないし騙されない。自分の身を守れる。それは間違いないんです。でも引き換えに、あの狂乱の中にいる人たちだけが味わえる激しい感情の高ぶりは、もう体験できない。

学生時代はしんどいことがあっても二次創作を読んで現実逃避できていた。でも今は、しんどいと感じたとき病むことしかできない。オタク活動をしていたあの頃は、逃げ場があったんだなと今更気づきます。

正気でいることが正解のはずなのに、どこか胸の奥に「でも…」が残る。この感覚をこんなに正確に言語化した本を読んだのは初めてで、それだけでもこの本を読んだ意味がありました。


推し活が流行る理由

「お金がない」と言われる時代に、なんで莫大な時間とお金をかける推し活がこんなに流行っているのか、ずっと不思議だったんです。

読んでいてひとつの答えが見えた気がしました。現実を直視するより、責任が発生しない「推し」の領域に自分の余力をぶち込む方がトータルで楽なんだと思う。脳を溶かして感覚を麻痺させている間は、現実のしんどさが中和される。そして我に返ることが怖くて、どんどんのめり込んでいく。

その「純粋な熱量」の弱みに付け込んでくるのが、陰謀論やマルチだったりする。SNSでずっとウォッチしてきた光景が、そういう構造だったんだと腑に落ちました。なんで朝井リョウはここまで知っているんだ、と何度も思いました(笑)。


でも、どのポジションが正解かは誰にもわからない

狂乱の中にいる人から見れば、俯瞰でいる私は「地に足がついていてちゃんとしている」と映るかもしれない。逆に私からは、熱狂している人が眩しく見える。

結局どのポジションが幸せかなんて、見る角度によって全然違う。「本質」みたいなものはどこにもなくて、みんなが自分にとって都合のいい断片を「物語」として編み上げて、それを本質だと思い込んで生きているだけなのかもしれない。

そんな中で私が「これが正解かも」と思ったのは、この作品の中のユリちゃんのような生き方でした。冷笑もしないし、盲目的に熱狂もしない。現実の手触りをちょっとだけよくするために、適度に目を逸らせる柱を一本立てておく。

結局この物語においては、ユリちゃんのようなオタ活の仕方が一番バランスがいいんだろうと思います。冷笑でも熱狂でもない、その真ん中あたり。

今の私に足りていないのは、たぶんその「柱」なんだと思います。


最後に

「推し活批判の本」ではありません。どのポジションにいる人の気持ちも、ちゃんとわかるように書かれている。

かつて熱狂した経験があって、今はもう「狂えなくなった」という自覚がある人に、特に読んでほしい一冊です。オタク文化の質の高い論文を読んだような、読後の奇妙な充足感があります。

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